「一人は好き」だけど、「一人で平気」じゃない。
2005年8月2日土曜日の件で、主宰者からきっつい嫌味を言われた。
真実だけれども。
やっぱり、精神病患者と健常者(この表現は適切じゃないかも)との付き合い、
精神病患者の健常者社会への参加は
どこかで必ず壁に突き当たると思う。
病気を理由にしてはいけないとは思いつつも、現実に体が動いてくれない。
また、精神の病を病気だと認めない人もいる。
勿論、人付き合いも社会参加も行えている患者さんもいる。
人並みならぬ、想像も付かないぐらいの努力をしているのだろうと思う。
私自身のことはとりあえず置いておいて。
「他の人ができるんだから貴方だってできるはずだ」という意見は
子どもの時から嫌いだ。
できないものはできない。
その代わり、他の人にはできない何かがあるかもしれない。
たとえそれが社会的には価値のないことであっても、
能力があるという事実は認めてほしい。
私事周辺に戻して。
誰かと深く付き合いたいならば、本当は相手に理解を求めるべきなのだと思う。
でも病人を何年もやってると、理解してほしいと努力しても、
力及ばずゆえか、そもそも縁がなかったのか…
大切にしたかった人を一人や二人、あるいはもっと失った経験があるだろう。
その経験が、躊躇させる。
理解を求めることは悪?
自我は殺めるべきもの?
人と深く付き合うことに臆病にならざるをえない。
だから浅く薄い付き合いに満足しなきゃならない、と言い聞かせてみる。
…でも、どうしても寂しい時があるんだ。
真実だけれども。
やっぱり、精神病患者と健常者(この表現は適切じゃないかも)との付き合い、
精神病患者の健常者社会への参加は
どこかで必ず壁に突き当たると思う。
病気を理由にしてはいけないとは思いつつも、現実に体が動いてくれない。
また、精神の病を病気だと認めない人もいる。
勿論、人付き合いも社会参加も行えている患者さんもいる。
人並みならぬ、想像も付かないぐらいの努力をしているのだろうと思う。
私自身のことはとりあえず置いておいて。
「他の人ができるんだから貴方だってできるはずだ」という意見は
子どもの時から嫌いだ。
できないものはできない。
その代わり、他の人にはできない何かがあるかもしれない。
たとえそれが社会的には価値のないことであっても、
能力があるという事実は認めてほしい。
私事周辺に戻して。
誰かと深く付き合いたいならば、本当は相手に理解を求めるべきなのだと思う。
でも病人を何年もやってると、理解してほしいと努力しても、
力及ばずゆえか、そもそも縁がなかったのか…
大切にしたかった人を一人や二人、あるいはもっと失った経験があるだろう。
その経験が、躊躇させる。
理解を求めることは悪?
自我は殺めるべきもの?
人と深く付き合うことに臆病にならざるをえない。
だから浅く薄い付き合いに満足しなきゃならない、と言い聞かせてみる。
…でも、どうしても寂しい時があるんだ。
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