土曜日の件で、主宰者からきっつい嫌味を言われた。
真実だけれども。

やっぱり、精神病患者と健常者(この表現は適切じゃないかも)との付き合い、
精神病患者の健常者社会への参加は
どこかで必ず壁に突き当たると思う。
病気を理由にしてはいけないとは思いつつも、現実に体が動いてくれない。
また、精神の病を病気だと認めない人もいる。

勿論、人付き合いも社会参加も行えている患者さんもいる。
人並みならぬ、想像も付かないぐらいの努力をしているのだろうと思う。

私自身のことはとりあえず置いておいて。

「他の人ができるんだから貴方だってできるはずだ」という意見は
子どもの時から嫌いだ。
できないものはできない。
その代わり、他の人にはできない何かがあるかもしれない。
たとえそれが社会的には価値のないことであっても、
能力があるという事実は認めてほしい。

私事周辺に戻して。

誰かと深く付き合いたいならば、本当は相手に理解を求めるべきなのだと思う。
でも病人を何年もやってると、理解してほしいと努力しても、
力及ばずゆえか、そもそも縁がなかったのか…
大切にしたかった人を一人や二人、あるいはもっと失った経験があるだろう。
その経験が、躊躇させる。
理解を求めることは悪?
自我は殺めるべきもの?

人と深く付き合うことに臆病にならざるをえない。
だから浅く薄い付き合いに満足しなきゃならない、と言い聞かせてみる。

…でも、どうしても寂しい時があるんだ。

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